随想「本のデジタル化」

コロナの話ばかりしても面白くないので、今日は本のデジタル化について書きたいと思います。

最近、ノートパソコンやタブレットを入手したこともあり、以前から気になっていた、本のデジタル化、いわゆる「自炊」をしてみようと思いました。(自炊とは「自分で本のデータをパソコンに吸い上げる」の略です)そこで、門人の中で経験のある方がいらしたので、機器をお借りして、手持ちの電子・電気関係の技術書と楽譜をいくつか取り込んでみました。

手順としては、綴じられている部分をおおきな裁断機でバツンっと切って、バラけた本を連続してスキャン可能な専用のスキャナにかけるという手順です。
当初は、画像として取り込んだ本の文字を、テキストデータとして認識する、OCR(Optical Character Recognition)の手順をさせる予定だったのですが、手違いでOCRは出来ませんでした。(OCRソフトを買えば、事後でも対処可能です)

いざそれで20冊ほど取り込みましたら、あれだけ嵩張っていた本が、ほんの数時間でデジタルデータ化されて掌に収まり、クラウド上にデータを上げて、どの端末からでもどこからでも読めるようになりました。OCRがうまく行っていれば、すべての本の中から、調べたい内容を検索することも可能になります。
これはすごいなぁ、便利だなぁ、と思いました。すべての本を取り込めばお家のスペースもかなり回復しますしね。

わたしはおっさんなので、本を裁断する、傷つけるということにはすごく抵抗があって、じっさい今回の自炊するのにも、数年悩んで(悩みすぎぃ)、悩むくらいなら試そうということで、やっと実際にやったわけですが、貴重な本・高価な本は別にして、躊躇なくバスバス行けそうな気にもなりました。
ですが、改めて考えると、やはり本のデジタル化にはそれ相応のデメリットもあるなぁ・・・と思うのです。

それとはなしに手にとった本の偶然開いたページとの出会いというものがやはりあるわけですが、デジタルの本ではそれがやはり無いわけです。完全に無いわけではなくて、適当な本を適当にタップして適当にページ数を打ち込むか、プレビュー画面で選べば、いいような気もしますが、それは違うとやはり心が申しております(誰だよw)。

もう一つは対応済みのアプリもあるでしょうが、背表紙でならべることができません。大半の電子本ビューワーは本の選択画面が平置き選択で、背表紙表示になっていません。これは結構おおきな差だと思います。

そして一番おおきな違いですが・・・これはわたしの読書体験から、人生・人生観においてかなり大切だなぁと最近感じていることに絡むのですが・・・

家の書棚に収まった数百冊の本の背表紙、そして図書館のどこを向いても本・本・本という圧巻さ。自分は一生かかってもそこにある本の一部すらも読むことはできないだろうという無力感。そんな図書館が世界中にあるというさらに途方もないスケール感への気づき。デジタルの本とデジタルの本棚ではこの経験は絶対に得られません。

この、自分では到底太刀打ちできなさそうという無力感や、自分には知らないことがまだまだあるんだという無知の証左が、量感を持つ実体・物質として目の前にグワッと迫ってくる経験って、大切だと思うんですよね。
大自然なんかはまさにそうで、わかりやすいですね。人智を超えるものに畏怖の念を抱くとかいうわけですけれども、大体の人間は人智の中ですら無知なのだということを身をもって体験したし、いまだに感じるし、自分の子供にも体験して欲しいわけです。

ということで、蔵書をデジタル化して家をスッキリさせたい、便利に本を読みたいという欲求と、子供のためにも(実際読むか読まないかという意味ではない)物質として残しておきたいという欲求の間で揺れております。20冊ほど裁断された本を傍におきつつね(笑
いや、良い経験になりました。
欲を言えば、紙の本を買えば、デジタルデータもついてくるというのが一番いいんですけれどね。本を切らなくて済むし。

ということで、本のデジタル化についてでした。

P.S.
自分の子供が見ることなどなかろう、仕事に関する技術資料なんかは躊躇なくデジタル化する方が幸せになると思います。むしろ、紙である必然性が無い・・・。