武道に限りませんが、技芸の継承においては、『わざ言葉』というものがよくつかわれます。一例をあげますと
(鉄棒の)蹴上がりは足を鉄棒に寄せた後はズボンを履くようにしてください。
そこの手の挙げ方は、頭を掻くつもりで挙げてください。
など、動きを事細かに解説はしないながらも、イメージとしては伝わりやすいというものです。私もそうしたわざ言葉に扶けられながら合氣道を続けてきました。やはり、初心のうちは複雑な動きを事細かに指示されても、頭が混乱するだけで指一本動かせなくなることもありますからね。
稽古と言うものは螺旋状にその技術が上達してゆきます。レベルが上がってくると、過去に悩んだ問題点に、当時とは異なる次元で再度取り組むことができるようになるためです。ぐるりと一周してきたようだけれど、過去よりは高さが上がっている。立体的にみると螺旋になっているという感覚です。
技言葉はまさしくこの螺旋の感覚にフィットします。どういうことかというと、「頭を掻くように手を挙げて」と言われて稽古をしていて、何とか形になってさらに稽古を積んでレベルが上がったとします。すると、ある時「はて?頭を掻く動きってのは本当にこんな動きだったのかな?」と、新たな次元でわざ言葉を見直すことができるんです。
これが仮に上腕を何度あげて前腕を何度曲げてというような数値的・外見的な指導だとどうでしょう?精度は上がるかもしれません。±5°だった傾きが±1°に収まるようにはなるかもしれません。ですが、その動きそのものがそもそも本当に求められている動きなのか?今まで思ってきたのとは異なる評価基準があるのではないか?というメタな視点には立ちづらいのではないでしょうか?
さて、わざ言葉のメリットを述べましたが、デメリットももちろんあります。
それは、武道で求められる動きのほぼすべては、武道を学ばない一般的な方の日常的な動きとは異質なものであることからくるものです。
普通の人に万歳をしてもらうと、「降伏」する人がいます。手の甲から上がって、手のひらを前に向けてしまうんですね。これは「降伏・降参・参った」です。万歳は左右の手のひらを向かい合わせて親指から上げます。(選挙の当選で降伏する人を見るといたたまれない気持ちになります。余談。)まだその程度なら向きを変えるだけなのでいいのですが、腕を前に振り上げるより先に肩が上がってしまう人が結構な率でいらっしゃいます。この「肩が先に上がる動き」は武道的にはタブーです。タブーなんですが、そのように動こうと意識せずに出る動きですから、非常に矯正しづらい動きでもあります。
こうした点を無視してわざ言葉にだけ頼ると、いつまでたってもレベルが上がらないということも考えられます。
我々指導者はわざ言葉と事細かな指導の両方をよい塩梅に使い分ける必要があります。
精進あるのみですね。