随想「動画」

昨今はいろんな動画サイトがあり、いろんな動画がアップロードされています。武道の動画も多数上がっていて、いつも楽しく見ています。動画サイトがなければ見ることなどできなかったであろう動画もおおいですね。

合氣道であれば開祖、植芝盛平翁の動画もあり、在りし日の開祖の姿が見られるのは大変勉強になります。柔道の三船久三十段の動画も、大変勉強になります。

ですが、こうした達人の動画には、いえ、達人かどうかに関係なく、武道の動画には否定的なコメントが多数つくのがもはや様式美のようになりつつあります。曰く、「あんなので投げられるわけがない」とか、「インチキだ」とか・・・。

かつては私もそうした動画をみて、さっぱり原理がわからなかったですし、インチキだと思ったこともあります(もちろん礼儀の問題としてコメントにはしませんでしたが・・・)。しかし、何年もたったある日、かつて変わった武道だなぁと思っていた動画を見直してみて、「これはインチキなんかじゃない。とんでもないことをしている・・・。これを見逃していたなんて自分の目は節穴だった!!」と、冷汗を流したことがあります。これは、稽古を積んでレベルが上がったことで、自分の観る目が養われたからなんですね。もちろん、正しく稽古を積まなければそんな目が養われることもないのでしょう。正しい稽古ができる環境であったことに感謝です。

実は動画や写真にも、しっかりと情報は映っているのです。ただ、それに気づけるかどうかは自分次第なのです。

とはいえやはり映像というものには弊害もあります。それは、情報というものは受け取り手が事前に持っている情報や、受け取り手のレベルそのものによって、その人にとっての意味が変質するからです。喩えになりますが、色眼鏡をかけた人には美しい絵画の色は正しく見えませんし、小さな子供には大人同士の複雑な人間模様が加味された会話の意図は読み取れません。

また、どうしても動画や写真には写らない情報もあります。「感触」とか「雰囲気」とか・・・。そのあたりはもう実際に自分がやってみるしかないわけです。そしてそれも、実際やってみても自分のレベルによってはわからなかったりする。

というとやはり、「映像の弊害」というよりは「受け取り手の問題」ですね・・・。(苦笑

何事も大切なことははっきりは映らない。聞こえない。におわない。触れられない・・・。しかしそれが巖として存在し、それを観分け、聞き分け、嗅ぎ分け、触れ分ける人がいる。達人というのはどの分野もそうした方のことを言うのでしょう。

やはり、観る目・感じる身体というのは大切なのです。というか、そうしたものを養うのが稽古の重要な意味の一つなのでしょう。

精進あるのみですね。