随想「技の名前」

合氣道の技の名前に関するお話です。

合氣道の技名は基本的に、「受けの攻撃の様態」&「取りの行う技」で呼ばれます。
例えば、受が正面打ちをしてきて、それを表の一教で抑える場合、「正面打ち一教・表」と呼びます。するってーと、攻撃の種類×技の数×裏表で、合氣道の技数が出せるなぁ・・・と思ったら大間違い。それは武道が最も恐れる形骸化そのものであります。

合氣道に限らず、武道の技法の神髄は、見た目に現れる技の様態など関係のないところにあります。武道の神髄に対し、いろんな条件がそろったときに、ある技が偶さかに現れるという順序になります。
そして、我々が普段稽古している技は、その神髄を身に着けるための方便であり、神髄そのものではありません。

ですが人は技の名前を聞き、その技の形(表面的な動き)を見ると、どうしてもそれに執着します。そして、その執着に気付くこともなく、今自分が見た形こそが技そのものだと勘違いするのです。
正面打ち一教・表と聞くと、正面打ちの手刀を両手でとって前に押し返して相手をねじ伏せようとします。そしてそれでうまくいかないと、蹴り足強く飛び込むスピードを速くしたり、押し込む力を強力にしようと筋トレしたりします。
もう、武道の神髄から外れること甚だしいと感じます。

たしかに、そうした表面上の動きを覚える段階や、力を使う(そしてそれが実は無駄なのだと気づく)段階があってもよいのですが、なかなか人はそううまく割り切れないものです。勘違いを勘違いと思うこともなく(あるいは忘れ)、ちょっと脇道のつもりがいつしか顛倒していることに気付かずに突き進むことがあります。私にもそんな時期がありました。

稽古の際、私が示演をしてから皆さんに稽古に入ってもらうのですが、最近は技名を口に出すのが嫌になってきました。
だって、知ってほしいのはそんな技の名前と表面的な動きではなくて、その奥にある感触であるとか、技を成り立たせる理合いであるとか、もっと言えばそうした奥を求めようとせんがために滅私没我の心持になってほしいからです。
「この動きの時のこの感触を大事に」とか「投げれるもんなら投げてみろと踏ん張ってたらこの感触は見逃すでしょ?」「技の上達を妨げているのは結局自分で気づいていないエゴが邪魔をしてるせいです。まずはそのエゴに気付くことが大切なんです。」なんて話ばかりしてしまいがちです・・・。

若造のくせに抹香臭いやっちゃなと思われているとは思いますが、開祖が技に名前を付けるのをえらく嫌ったとか、師範の講習会で具体的な技名がほぼ出ないこととか、師範に個人的に稽古をつけてもらった際のお話を反芻すると、きっとこんな感じなのかな?という感じで稽古をしています。