随想「四苦八苦」

コロナ対応が続き、皆さん苦しいところと思います。今回はその「苦」についてです。

皆さん、「四苦八苦」という言葉は聞いたことがあると思います。非常な苦しみやあらゆる苦しみを指す四字熟語ですが、語源は仏教にあります。四苦八苦は四苦と八苦の二種に分かれるのですが、今回は前半の四苦についてです。

四苦

四苦は読んで字の如く、四つの苦を指します。仏教に多少詳しいお人でしたら、その四つがそれぞれが何を指すかご存知と思います。仏教に詳しくなくても、その四つを繋げた四字熟語は皆さん聞いたことがあると思います。

「四苦」=「生老病死」です。

この内、「老病死」が苦というのはすんなり受け止められると思いますが、「生」がなぜ苦なのでしょう?人によっては「生きることはつらいから」というかもしれませんが、実はこの「生」は生きるではなくて産まれることを指します。生まれることはめでたいことなのに、なにが苦しいのか?

実は、仏教では「苦」というものは明確な定義があります。禅問答では明確な答えがなかったりするのに、こちらには明確な定義があるんです。

それは、「仏教における苦」=「自分の思い通りにならないこと」です。この定義に照らし合わせますと、生老病死の四つはまさに「苦」そのものだとご理解いただけると思います。

人は産まれる時代、場所、親兄弟を自分で思い通りに選べません。お金持ちの家に生まれたかったと、駄々を捏ねることがあっても、しかたのないことです。

人は老いることを自分の意思で避けられません。老いることで、心身ともにいろんな変化が起きますが、そうした変化もまた思い通りには避けられません。

人は病を自分の意思でコントロールできません。医学が発達して、予防や治療がある程度可能であっても、完全なコントロールは不可能です。

昨今のコロナなどはまさにこれですが、「ウィルスに打ち勝つ」など、人間の思い上がりもいいところで、せいぜいが予防や治療法を確立して、死なない程度に付き合うのが関の山です。

人は生まれた以上、自分の意思に関係なく、いつか死ぬことが確実に決まっています。世の中には真偽のわからない話がたくさんあって、そうした情報に踊らされることもありますが、この「死」ほど何の疑いようもなく万人に等しく訪れるものはなかなかありません。

四苦がどうすればいいの?

じゃあ、その四苦をどうすれば良いのか?四苦を取り除けば人は幸せになるのか?というと、そうではありません。むしろそれは逆に余計に辛くなります。思い通りにならないから苦なのであって、それを思い通りにしようとすると余計辛くなるだけで、何も解決されません。

そうした態度を仏教では「執着(しゅうじゃく)」と言い、これもまた仏教の中で大切な概念です。

特に何かする(執着する)わけではなく、自分の不安や辛い気持ちの出所が、そうしたものなのだと、気付き、認識する。可能であればそれを離れ、手放すのですが、修行が進まないとそれはなかなか難しいものです。まずは認識するだけでも良いのです。

人は、自分の気持ちの出どころのわからないものを「不安」に感じます。気持ちの出所がわかるだけで、かなり落ち着くことができます。気持ちが落ち着けばあとは切り替えるなり、楽しいことをするなりすれば良いのです。

こうした、自分の気持ちに気付いたり向き合ったりするのが禅、瞑想のそもそもの始まりです。瞑想は内観とも呼ばれますが、先ほどの四苦の話を聞いた後だと、「内観」という文字もなんだかイメージが湧きませんか?

瞑想と禅は大体同じようなものとイメージして良いですが、「合氣道が動く禅」と言われるのも、自分の体や心に向き合うからこそです。

その辺りにも意識を向けながら生活・稽古をすると、色々と気づきがあって楽しいです。みなさまもよろしければ是非どうぞ。