随想「合氣道は護身術に非らず」

合氣道は護身術として紹介されることもあり、そう言う動画はネット上にたくさんあります。ネットに限らず、新聞や雑誌などでもそのように紹介されていたりもします。しかし、私は合氣道は格闘技的な意味合いでは護身術ではないと考えています。今回はそんなお話です。

なぜ護身術ではないのでしょうか?の前に、合氣道は格闘技でないのはみなさんわかると思います。格闘技であればNo.1決定戦やら試合やらトーナメントなどがあるはずですが、合氣道にはそれが全くありませんので・・・。

さて本題。なぜ合氣道は護身術じゃないと私は思っているのか?

護身術であれば、即効性が求められるはずです。今日習ってその日の帰り道で役立ち、1年もすればかなり有用・・・というように。合氣道の稽古はどうでしょう?1年やそこらで型が実用レベルで身につくなどと言うことはありません。

護身術は「そのくらいできたらOK。この辺じゃ敵なしだね!」と言えるけれど、修行には「ここでOK」が言えません。「はいじゃあ次」とかつてのゴールが消えてさらに先に移動してる・・・。という塩梅ですから。(実はこの構造的違いはめちゃめちゃ重要な視点ですがここでは割愛です)

服装について、護身術だったら道着である必然性はなく、むしろ普段着であるべきです。襲われることに備えて、道着で生活なんかしてないでしょ?

護身術であるなら、相手の攻撃も正面打ちなんて稽古の方便だと割り切って、ある程度技ができるようになったらあとはひたすらナイフや棒などの有事に想定される攻撃に特化して訓練すべきです。相半身片手どりは抜刀を抑えられた時の形です!なんて私も言ってやってますが、あなた普段から佩刀してないじゃないですか、何言ってるんですか。←セルフツッコミ

合氣道で身体能力をあげておけば、いざという時役立つ!護身だ!・・・ですって?じゃあ合氣道じゃなくていいじゃないですか。陸上で逃げ足を鍛えたほうがいいでしょう?体力増強ならバービージャンプでしたっけ?あれでいいんでは?あ、最近パルクールが流行ってますよね。あれ、いいですよね〜、実は憧れてます!

ことほど左様に合氣道を格闘技的護身術として価値があると言おうとすればするほど合氣道の本質からは逸れていってしまいます。

私にとって合氣道は格闘技的護身術ではないと言うのはもうマイ常識なのですが、世の中はあまりそうでもないらしいというのは冒頭に述べたとおりです。

ちょっと意地悪な言い方になっちゃいますが、合氣道をみて「護身術的にあり得ない!ぷんぷん!」と思うようでは、その人は「有事の想定が甘い」と言えます。「有事の想定がしっかりしている」人にとっては合氣道はハナから護身術には見えていませんから。

護身術の視点からすると、合氣道は一部参考になる原理や動きはあるものの、合氣道そのものが護身術というにはあまりに虚構が多すぎます。

というか、現実的な視点からすると虚構だからこそ合氣道は修行として成立しやすいとも言い換えることができます。現実とはなにか?虚構とは?という哲学に踏み込むことになるわけですが、ここでは割愛です。

合氣道は虚構満載だとは言うものの、永く稽古をして培われた心身が、有事にひょいと役立つことや有事そのものを避けることに役立ったりすることはしばしばあります。だからこそ護身術だと誤解されるのかもしれません。しかしそれは長い修行の副産物であって、先述の即効性うんぬんの通り修行の主たる目的ではないのです。

じゃあ護身術じゃないんだからテキトーに踊ってりゃええんか?と言われたらそうではなく、やはり虚構とは言え、攻撃はしっかりと攻撃しなければいけないし、技は技として効いていなければいけないしと、難儀なものですねぇ〜。←まんざらでもないという笑顔で

と言うことで、合氣道は格闘技的な護身術そのものではないと言うお話でした。

本当は道と言うからにはほか武道も似たような感覚があると思うし、だからこそ体育館の武道場を「格技室」だなんて言われるのにはちょっとムッとするし、政治家が「武道の怖い先生を学校に!」なんて話があったときには何言ってんだこの人?って思ったワタクシです。

さて、今回は合氣道は護身術ではないというテーマでしたが、この「○○は□□か?」問題というのは、この命題を真だと思いこんでいると、細かい話になった時に破綻するのを避けようと、トンデモない理屈をこねくり回してしまうおそれがあり、現実よく見かけます。果ては陰謀論に飲み込まれたりしますから、お気をつけて・・・。

新年も明るく楽しく、修行に励みましょう。