随想「コンテキストと指導法」

コンテキストとは?

コンテキストという言葉をご存知でしょうか?Macに入っている辞書に聞くと、

コンテキスト 14context〔コンテクストとも〕
① 文章などの前後の関係。文脈。「語の意味を―の中でとらえる」
② 事件や出来事にかかわる事情・背後関係。

マックの辞書

という風に出てきますが、私が今回紹介しようとしている意味は、「人と人の間で共有されている、文化的背景や慣習、暗黙知のこと」をいいます。

コンテキスト度が高いと、「ツーといえばカー」のように会話が成り立ちます。「男は黙って・・・?」「サッポロビール!」とか、大工の棟梁が「アレをナニしとけ」と弟子に言うだけで仕事が進むとか。
そしてコンテキストは文章や会話に限りません。日本であれば、結婚式に呼ばれればみな、同じ様な格好をしてきます。お葬式もそうです。服装にかぎらず、お祝儀の額もおおむね妥当な金額がわかる。これはまさしくコンテキスト度の高さからくるものです。

ハイコンテキスト・ローコンテキスト

コンテキスト度でみると、日本は世界で稀に見るハイコンテキストを誇る国です。韓国も高い方でしょう。中国も高そうですが、部族間ではローコンテキストになるかもしれません。
西洋は押し並べてローコンテキストでしょうか?アメリカなどは歴史も浅く、民族もばらばらですから、まさしくローコンテキストです。
コンテキスト度がひくいと、「ツーカー」では話が進みません、全部、文章や図で詳細に説明をして、都度、双方で合意を取っていかないといけません。まさしく、アメカンな感じです。

ハイコンテキスト文化とローコンテキスト文化の利点・欠点

ハイコンテキスト文化は、なんと言っても様々な暗黙知が共有されていますから、非常に高速に仕事が廻ります。大して説明せずとも、相手が先を読んでくれますからね。
一度コンテキストに慣れると、あとはルーティンワーク的にやっていけるとも言えます。

ここで、ハイコンテキストな文化に、コンテキストを共有しない人が紛れるとどうなるでしょう?
その集団では明文化されることもなく当たり前とされる文化が分かりませんから、たちまち軋轢の嵐となります。一時的にローコンテキスト文化になってしまうわけです。
ハイコンテキスト集団からはその人が邪魔者・異物の様に見えるし、その人からは集団がひどく冷淡な集団に見えるでしょう。

次に、ローコンテキスト文化ですが、こちらはナニをするにも一から説明、明文化が必要となります。そのため、簡易な作業や情報を伝えるには手間が増えますが、ある程度複雑なことを相手に伝えよう、してもらおうとすると、マニュアルが整っていますから、誰にでもとっつきやすいという利点があります。
また、世代を超えた情報伝達の面からも、情報が明文化されて残っているため、非常に有利です。

この様に、ハイコンテキストの利点はローコンテキストの欠点だし、ハイコンテキストの欠点はローコンテキストの利点です。どちらがいいとか悪いではなく、その土地や国や文化そのものによって変わるということです。

さて、ここまでコンテキストというものを長々と説明してきましたが、端的にいうと、「コンテキストとは自分が当たり前だと思っていること」と言い換えてもさほど間違いではありません。
じつはこの、「思っている」というところが曲者でして、人間は当たり前のことは、わざわざ「思いません」。思う思わないという意識は一切なく、自然に振舞うものをここでは言っています。

合氣道の指導とコンテキスト

さて、合氣道を指導していて、たまに入門後間も無く足が遠のく方がいます。(それが悪いと言っているのではなく、むしろ私が反省するための投稿です)
事情は様々でしょうが、稽古初期の頃は、体の動かし方がまったく非日常的であったり、型や攻撃、動きの意味がわからなかったりと、「自分が何のためにこれをやっているか、自分の立ち位置や目的を見失ってしまう」ことが大きいと思います。
学校の勉強でもある、「ナニがわからないかがわからなくなる」という状況かもしれません。

かつて私はどうだったかな?と思い返すと、稽古自体が楽しくて、ちょっとやればそれなりに動けたこともあって、そうした悩みとはほぼ無縁であったことが思い起こされます。
また、すでに稽古法や道場の雰囲気になじめている人もいますから、道場の中というのはまさしくハイコンテキストな文化なのだと思います。

ここが落とし穴なんですね。
オタクである私は放っておかれても稽古をし続けるんですね(ひどい言い草)。悩んでいる人、立ち竦んでいる人を他所目に。
言い方を変えると、「他人の悩みどころがわからない」とか、「共感度が低い」とか言えると思います。
ところが、指導する時にそんな態度があからさまですと、やはり置き去りになってしまう人が出るわけで、これはなんとかせんとなぁ・・・と思うわけです。
まあ、態度があからさまというか、先ほど言った通り、あからさまであることに自覚があるわけでなく、それが私の普通の態度なのですが・・・。

ライザップの凄さ

さて、いきなり脈絡なさげにライザップの登場です。初めてあのCMを見たときはびっくりしました。(笑

ホリエモンこと、堀江貴文さんによると、ライザップの凄さはカリキュラムにあるのではないといいます。ではどこに凄さがあるのか?それは、「指導員のコミュニケーションスキルの高さにある」とのことです。どういうことでしょう?

ダイエットは基本的に筋力をある程度鍛えて、食事の摂取カロリーより運動の消費カロリーを大きくする「だけ」で達成できるものです。にもかかわらず、皆挫折していく。挫折する細かな理由は個人ごとに違うのでしょうけれど。

そこで、ライザップは高いコミュニケーション能力を持つ人を指導員として採用し、お客さんが挫折しない様にメンタルをサポートすることをメインに据えているそうで、「このトレーナーさんのためにも頑張る!痩せる!」という気持ちにお客さんを導くのだそうです。

そして、ダイエットを謳う他のジムがうまくいかないのは、そこに気づかず、「ただの筋トレオタクが、『当然やるでしょ!』『なんでやらないの?』と、挫折しがちなお客さんを置いてけぼりにするから」だそうです。

この話を聞いたとき、私は目から鱗がボロボロ落ちた気がしました。

まあ、ライザップはそれと並行して、あの衝撃的な演出のCMや、数十万という価格設定、そして「結果にコミット」という決め台詞の「コミット」という単語の意味がわかるなど、ある程度ハイソな人をターゲットにしているところもマーケティングの成功の秘訣だとは思いますが・・・。

師範の言葉「次第説法・対機説法」

よく「万全のサポート体制」といいますが、これはカリキュラムがしっかりしているということではないんですね。挫折しそうな時に寄り添える人がいる、そうした体制があるという意味なのでしょう。もちろん、段階的稽古(カリキュラム的なもの)もなければいけません。

とここまで書きますと、師範が最近よくおっしゃる「次第説法・対機説法」の意味も少し具体性を持って捉えられます。

段階を追って稽古を積むための指導である次第説法と、稽古者の性質・状態・タイミングに応じ対する指導である待機説法、この両者が揃わないと、指導は上手くいかないよということだと思います。

精進あるのみです。