随想「手応え」

さて、今回は手応えについてです。
師範に技をかけていただいた時は、非常に重みを感じます。身体が不安定になったところに、巨岩を預けられたような・・・とでも形容しますか、そんな感じです。
師範に限らず、「ああ、今のはいい技をもらったな」というときは、ほとんどそんな感じです。もちろん、その時は嫌な感触は感じませんし、ふわっと包み込まれるような雰囲気も感じますが、今回はこと「手応え」について書きます。

最近というか、本当につい先日気付いたことがあります。それは、

「技を食らったときの重さなどの手応えは、『受けとしての手応え』である。取りを行うときはその手応えの再現を目指してはいけない。」

ということです。
何を当たり前のことをとおっしゃるかもしれません。いや、実際なぜ今まで自分で意識・認識できていなかったのかと、反省しきりなのですが・・・。
皆さんがそうなのかどうなのかはわかりませんから、私はこうだったという書きぶりで解説します。

私は師範や黒川先生の技に憧れて稽古をやってきました。もちろん今もです。
その稽古に際して何を頼りにしていたかというと、「すごい技をもらった」と感じたときの「如何ともしがたい盤石さや重さの感触」を頼りにしておりました。
「受けた時にあれだけ手応えがあるんだ、取りをしても同じように手応えがあるだろう」と、意識することもなくそれをアテにして稽古していたのだろうと、今にして思います。

ある程度稽古をしていますと、技がそれなりにできてきます。そして手応えも感じます。満足します。しかし、いざ今まで以上に力の強い人と対峙すると、どうにもならなさそうな気配を感じておりました。

さて、そんな思いとは別に、稽古中に取りをしていて、こちらとしてはほとんど何もしていないのに、受けの人が「うっ」と言って崩れたり転がったりすることがありました。その時はあまりなんとも思っていませんでしたが、私にもそんな受けの覚えがありました。
こちら(受け)としてはすごい手ごたえを感じているのに、相手が平然としている・・・。時には信じられなさそうな顔をしている・・・。

昨今、皆さんに指導をしていてそうした機会は特によく感じるようになりました。
自主稽古に剣術などを取り入れ、「受けのあるなしは置いておいて、正しく動く」ことをそれなりに意識し始めたことも一因かもしれません。
自分が上手になってきたのだろうと、うれしくもありましたが、釈然としないところもありました。釈然としないというか、いまいち自分の中で言葉として説明できないというか・・・。
う~ん・・・やきもき!

そして数日前ハッと気づいたのです。

受けの時に接触点を通じて取りに盤石さや重さを感じたとしたら、それは『受けとしての手応えであって取りの手応えではない』。言い方を変えますと、『やられる側の手応えであって、やる側の手応えではない』。
取りを行うとき、同じ手ごたえを期待するといけない。それは主客が顛倒してしまっている。取りをしていたつもりが受けになってしまう。投げていたつもりが投げられることになる。
取りには取りの手応えというものがあるはずです。

じゃあ、取りとしての手応えって何だろう?と考えた時、さらにハッとしました。

師範や黒川先生が受けを取ってくれた時、「そうそう!それだよ!」といって転んでくれた時、私はほとんど手応え(ここでいう手応えは上述の受けとしての手応え)を感じていませんでした。
私はその時の感触を思い出して稽古しなければいけません。
親の心子知らずとはまさにこのようなことを言うのだなと、しばし呆然としてしまいました。

まったく今までわかっていなかったというよりかは、何となく体がそんな風に理解し始め、やっと言葉で説明できるようになったというような感じですが・・・。

過去の私は、「取りに際しても、受けの時のような手応えを(無意識に)求め、師範や先生が示してくれた感触を見落としていた」のです。
スコトーマ、盲点とはまさにこのことです。
すでに答えは目の前に示されていたのです。
精進あるのみです。