随想「試合のない武道」

そういえば合氣道の大変大きな特徴である、「試合がないこと」について随想を書いておりませんでした。きっと試合しないという合氣道の特徴を自然と受け入れられて、細胞レベルで体になじんでいるから・・・と思いたい。手前みそですが(笑

さて、合氣道が試合を採用しない理由ですが、私は大きく二つに分かれるかなと思っています。
以下に書いてみます。また、開祖のお言葉も最後に紹介します。

1.競技としての視点

試合を競技としての試合と考えると、それは日にちや場所が決まっているものでしょう。そしてよーいドンで始まる。参加者はその勝負の瞬間に最高のコンディションで臨めるよう、普段の練習に励みますね。
試合が終わればしばらくはオフですから、極端にいえば試合で燃え尽きてもいいわけです。壊れてもいい。試合に勝てて結果が残せればいい。そのために普段の練習がオーバーワークになっても構わない。どこかに痛みがあって、体から「もうやめろ。それ以上やると壊れる!」という信号がきても、試合に間に合って試合の間絶えられるならその信号は無視してしまえるし、無視すべきだという考えになります。
もちろん選手生命が終わるようなやり方はいけませんが、結果が残せて回復が見込める程度であればOKということになります。
端的に言えば、「最高のコンディションで最高の結果を残す。そのあとのことは知らぬ。」という具合です。

武道であればそうはいきません。武道が想定する「急場」は何がいつあるかわからないということがたった一つの条件です。そしてそれを何とかして乗り越える。可能なら回避してしまう。
端的に言えば「最悪のコンディションであっても生き延びる」ということです。
そのためには観察力や洞察力、心身のモニタリング能力に長けなければいけません。痛みや不快感といった「体からのSOS信号」を無視するなど、あってはならぬことです。

とはいえ、競技試合は駄目で武道の稽古がよいと言っているのではなく、目指すものが違う、別物であるということです。サッカーと和食は比べられないでしょ?お互い自分の目指すものを続ければよいと思います。

2.乱取としての視点

乱取はどうしても相手を投げよう叩こうと躍起になりやすく、また相手にやられたくないと頑なになりやすく、ややもするとシャモのケンカみたいになってしまいます。
古来より武術の稽古法としては型稽古・乱取稽古があったわけですが、かつてより乱取は難しいと言われてきました。 何が難しいかというと、一体何のために乱取をしているのかが霞んでしまうということです。
では乱取の意味とは何でしょう?試合競技全盛の昨今ではさながら試合の模擬でしょうか?しかし本質は然にあらずです。

乱取はもともと技量が上がり、体が練れた修行者が行う奥の稽古です。身体ができた人が何を稽古するのか?技が実戦で使えるか?ではありません。「心がとらわれることがないかを稽古する」のです。これが乱取の本質です。

そう考えると初めに書いた、「躍起になる・頑なになる」などはもう、乱取をする意味がありません。
向かい合った二人がじっとして動かない(動けない)、先に心の居着いた・動揺した方がそれを相手に氣取られた時点でおしまい、くらいのものです。表面的に言えば初太刀や数発の交錯で終わりでしょう。

考えてみればわかりますが、大変な難しさが想定されます。やるほうもそうですが、これは相当な指導者・先達がいなければ、今ではちょっとやそっとでは体験もできない世界かもしれません。
そんな乱取ができるためには、以前随想で書いたように、負けたほうが参ったと言える必要がありますし、乱取より前に自分の身体をもっと鍛える必要があります。もちろん、筋トレという意味ではなく、その道の理合いに則った身体です。

「試合は『死に合い』に通ず」

開祖が遺された言葉です。
開祖は合氣道を実戦の術としては全く考えていませんでした。むしろ、宗教的な行のように捉えていたと思います。私も最近はそんな気持ちが少しずつ出てきました。
であれば、試合競技という観点はあり得ませんし、乱取の視点はまだ近いものがありますが、それがすべて・それで終わりではありません。
やはり、合氣道はそうした次元を超えた目的をもって「行じるもの」なのだろうというのが今の私の見解です。