随想「写真」

最近この随想を上げる時に一緒に載せることがあるように、写真熱が再熱しています。元々はバンドをしていた頃に、周りの友人たちと一緒にカメラに手を出したのが始まりでした。

外に出歩く時にはカメラを携えたり、たまにはカメラリュックを背負ったり・・・。カメラリュックを背負うと途端にもっさい感じがしてくるのが難点です。

さて、写真熱が再熱してから撮ってきた写真を振り返ってみると、ある程度傾向が見えてきました。それは、「どこかで見たことがある写真」と「ああ、この景色がふと気に入ったんだなという写真」です。

前者は見返したところで、「ああ、よく撮れてるね」とか「もうちょっとこう・・・」とか言う感想しか浮かばなくて、面白みを感じないのですが、後者はその景色に出会った時と同じように見入ってしまうし、当時を思い出すんですよね。

その両者には決定的な違いがあります。

それは、撮る時に雑念に執着したか?自分の感性に従ったか?です。

よくある写真というやつは、こうすればいいですよという小手先のテクニックを見聞きしたものを参考にして撮っていて、撮る瞬間はその見聞きした小手先のテクニックを思い出してその通りになるように・・・と、目の前の景色やそれに感動した自分の感性を置き去りにして、雑念(小手先のテクニック)に執着しています。

この写真いいな!という写真の時は、散歩したりしている時にふと目に止まった景色を写していることが多く、それはテクニックは二の次で、気に入った景色・瞬間を前にシャッターを切っています。これは、自分の感性に従っている瞬間です。

この違いは決定的であることに気づき、写真は武道と似たところがあるなあと思った次第です。執着と三昧の違いのようなものかなと思います。

そして大事なことは「写真」という言葉に騙されないことでしょうか。写真は真実を写しません。写っているのはおそらく、写した瞬間の撮影者の心だと思います。そもそも、元の言葉ではPhotography=光画で、光で描かれた画、以上でも以下でもないですし。

色々書きましたが、自分で撮った写真を見返すと、撮影当時の自分のありようを思い出して、しょんぼりするやら面白いやら情けないやら・・・まあそれが醍醐味ですかね?

それにこれは自分の撮ったものを自分で内省するからそう思えたってだけでもあります。人様が撮った写真を前に、「あなたはこういう心を持ってますね?」なんてこと言ったら、ただの勘違い詐欺師です(笑