本日の稽古で、一つ大きな気づきがありましたので書き留めます。
例として座技呼吸法で説明します。
捕りは実施にあたって、受けに対し簡単な質問を投げかけます。そして、受けが「はて?」と考え込んだ瞬間に技をかけるのです。
驚くほど技がかかります。
逆に、受けのときに捕りに対して問いかけ、捕りが「はて?」と考え込んだ瞬間に手をとると、もう捕りの技は効かなくなります。
これは必勝の一つの形だと私は気づきました。
問いかける方はもうすでに先手で、答えようとする方は必ず後手なのです。先手後手が形成された瞬間に、後手は完全に居着いていますから、後手が逆転することは基本的にあり得ません。
ここで思い当たることがあります。師弟関係を含めた教育関係における先生と生徒の関係性です。
先生対生徒は先述の形でいうと、先生が必ず先手で生徒は必ず後手です。ということは、教育はほとんどの場合、被教育者は後手に回ること、負けることを執拗に繰り返しています。
もちろん、先生は生徒より先手を取りたいというわけではないし、かといって問いかけることなく学習を進めることもできず。生徒も我から後手を取ろうとは思ってはおりますまい。かといって、先手の取り方もわからず・・・。痛し痒し・・・。
「徒に生きるから生徒と謂ふ」などと言われるのは斯くの如き様相からでしょうか?
高等教育では生徒ではなく学生と言われます。「学びに生きる」のです。学ばされているのではない。学ぶのは自分です。自分が主体です。さて、一体どれほどのかたが学生なのでしょう・・・?
合氣とは、体を鍛え心を磨き勇気を出して積極的に今を生きること。そして、喧嘩いじめ争いのない平和な明るい社会をつくること。
体は「鍛える」。心は「磨く」。勇気は「出す」。積極的に「生きる」。平和な明るい社会を「つくる」。すべて自分が主体となっておこなっていくものです。
「犀の角のように、ただ独りあゆめ。」by釈迦牟尼
「世の人は、我をなんとも言わば言え。和が成すことは我のみぞ知る。」by坂本龍馬
すべて内発的主体性によるものです。後手はあり得ない。全て先手なのです。
いや、先手後手を考えるのもすでに後手なのです。
我々はもう、構造的に後手に回ることが宿命づけられているといっても過言ではないほどなのです。
この構造に思い当たるまでは・・・(思い当たる。思い当てられるんじゃない。当たりに行くのは自分なのです。)
これが開祖のおっしゃった「勝速火」の一端なのかもしれません。