随想「結ぶ・解く」

合氣道でレベルが上がってくると、相手と接触した瞬間に接触点を通して相手と自分を「結ぶ」という感覚が重要になってきます。受けと一体になるとも言い換えれます。
感触の話ですから、見ても聞いてもわからないお話にはなってしまいますが・・・。
うまく結べると、受けと取りの間に隙間がなく、かといってぶつかりすぎるところもなく、もともと一つの物体だった様な感触を受けます。

そしてそこから動くときに自分勝手に動こうとすると、たちまち隙間が開いたりぶつかったりします。結びが切れてしまいます。
手首を取ってもらっている状況であれば、相手の手の中で自分の手首がねじれてしまったり、骨がゴツゴツ当たる感触がしたり、相手の手から切れてしまったり・・・。衝突する時はとくに、取りの体の中のどこで衝突が起こっているかが、まざまざとわかります。肘が固まっていてそこで衝突する。肘は柔らかいが、肩で衝突する・・・。などなど・・・。

この、動く際の動き方も大変難しく、また重要なことなのですが、最近私が意識しているのは、「解く」という感触です。
これは、相手との結びを解くのではなく、「自分の体を解く」という意識です。
完全に個人的な感覚の話になるのですが・・・。

普段立ち居振る舞いに於いて、いつも自分の体に「居ついている箇所」を感じます。言い換えれば、柔らかくない箇所と言いますか、知らずのうちに余分の力で固めてしまっていると言いますか、そんな箇所を感じます。
きっと、こういったことに無頓着な一般的な方であれば、それは体のあちこちで起こっているだろうし、極端にいってしまえば、人は多数のパーツで成り立っているが、それを荷造りの紐でがんじがらめに固めてしまって、人の形を保っている・・・。そんなイメージです。

うまくバランスを取れば、ロック・バランシングのように立てるはずなのに、接着剤や紐で無理やり固定している・・・。そんなイメージです。
さっき言った、居ついている箇所というのは、この、接着剤や紐で固めたようにイメージできる箇所のことです。
居ついた箇所というのは、そこは「武術的に弱点」です。ぜひ無くしたい。

余談が長いですね・・・。
私が意識していると言った、「解く」というのは、そうした箇所を解くという意味です。
一言で言ってしまえば、よく言われる「余分な力を抜く」ということなんでしょうけども、これはわざ言葉のデメリットが顕著になりやすい例だと思います。「抜けるもんなら抜いてみてよ」と言いたくなります(笑
余分な力を抜く「つもり」でよくあるのは、居ついた箇所はそのままに他の箇所が腑抜けにぐにゃぐにゃになるというものです。これは当然ダメです。

動くときにそうした居ついた箇所・固まった箇所がそのまま動くと、それが相手と衝突したり、隙間の元になります。
ですので、全身が柔らかく動くために、「今ある姿から、体を解く様に動く」という感覚に最近は注意を払っています。
荷造りの紐で固定していたブロックの塊が、紐を解いた瞬間に全体から崩れ落ちる様に・・・。手で丸めたティッシュが、手を開くとふわりと広がる様に・・・。

う〜ん・・・。これは説明しづらいですね・・・。

精進あるのみです。