随想「着物と武道」

先日の随想で、着物をいろいろと調べ始めたのは、「和装をすることで武道的に得るものがあるかもしれないと思ったことが発端だった」みたいに書きました。でも、その随想ではあまりそのあたりを詳しく書いていなかったので、書いてみます。

着物を着たことがある人ならわかると思いますが、着物と洋服ではまったく着心地が異なります。洋服で育った私たちの体は、着物にはなかなかなじみません。
洋服のつもりで過ごしていると、着物はどんどんと着崩れてしまいます。おなかで締めていた帯がウエストまでずり上がったり、歩幅が広すぎて前あわせがずれたりするのはよくあることです。
草履や下駄など、初めて履く人にとっては拷問器具と感ずるものばかりでしょう。すぐ鼻緒ずれ(?)するし、足も脚も痛くなります。草鞋なんて、指は全部草鞋からはみ出て地面についています。
昔の人はよくこんな服で生活していたなぁと思うことと思います。
しかし和服は時代の流れで廃れ行き、今や日本人の日常の服は洋服なわけですが、日本人の衣服が洋服になったのはここ百年程度で、日本で古来より連綿と続き発展してきた武術・武道の歴史から言うと、洋装は比較的最近のことであると言う事実がございます。

さてさて、それを考えると「今の私たちが着ると生活に支障をきたすような着物を、当たり前のものとして生活していた人間が作り伝えてきた武術・武道と、洋服が当たり前で、それになじんだ体遣いしかできない今の私たちがやっている武術・武道は、果たして同じものなのだろうか???」という疑問がわきます。
というか、私は湧いたわけです、そんな疑問が。倒置法。
そして私は、両者は似て非なるものなのかもしれないと思ったわけです。
そんなこんなで和服やその歴史を調べるようになったわけです。

すると、「現在の私たちが結婚式や成人式で着ることのある和服の様式」(私はこれを「着物」と呼びます)というのが、実は全くもって近代の産物であるということも分かったわけです。
着物で洋服のように動けないのは確かですが、かつての日本人が着ていた和服と今の着物はこれまた似て非なるものなのです。

そう、私が知りたい、着たいのは和服であって着物ではないのです。

そして、かつての和服時代の武術・武道と、洋服時代の武術・武道との違いがなんなのか、そこはこれからの研究課題です。まあ、研究課題とは言いますが、あまり表層的なことにとらわれすぎないようにと自戒しております。
だって、武術・武道、そして宗教も哲学も同じですが、「目指すべき『真理』とは、時代も国も性別も人種も、果ては人と動物も、有機物も無機物も、分け隔てなく当てはまるものだから」です。
着るものが違うだけで変わるものは『真理』ではありません。ただの『現象』です。まあ、現象はすべて真理に裏打ちされているはずですが・・・。

さあ、精進あるのみです。