随想「疑うということ、問うということ」

よくビジネス書やキャリアアップの講座やコラムで、論理的・科学的に物事を考えるために、何事も疑いましょうとか常識を疑えとか、「疑うことが是である」系のスローガンを目にします。
しかし私は、それは違うと思います。

本当に大切なのは「問う」ことです。疑うと問う、何が違うか?説明します。

疑うとは「そんなことはありっこない、あり得ない、間違っているに違いないと『決めてかかる』態度」です。
「私はこう思う」ということに居着き執着し、それに合致しないものをいぶかしむ態度です。
疑うことで今まで気づいていないことに気付こうとしているはずが、自分が何かしらの論・スタンス・原理にとらわれてしまっている、自分が色眼鏡をかけていることに気づけないのです。
疑った先には相手が間違っていたことが判明して留飲を下げるか、自分が間違っていたことが判明して腹を立てるかしかありません。生み出すものは負の感情だけです。

問うとは、「なぜだろう?どういう条件がそろえばそれが成り立つのだろうか?」と「見聞きしたことをまずは受け止め・飲み込んでから、事の理路を究明する態度」です。
出発からして自分の知らない何かがあるのかもしれないという、開かれた目がそこにはあります。
問うた先には何か発見があるかもしれません。何か生まれるかもしれません。とても意味のある活動です。

話を合氣道に向けますと、私は稽古に際して師範や先生を疑ったことは一度もありません。「どうしたらあんなすごいことができるんだろう?」とひたすら問うてきました。

もしも疑うことに効能があるとしたら、それは「騙されないため・自分を守るため」だと思います。その目的であれば、疑うことにも意味がありますが、それはやはり発展性はありません。現状維持が関の山です。
また、疑うことを問うことに匹敵させようとすると、よほどの謙虚さや方法論が必要でしょう。疑う元となる自分にもすでに何かしらの色眼鏡があるのかもしれないという、二重三重の疑いが必要です。

今の世の中が殺伐としてきているのは、この「疑うことのデメリット」や「正しい疑い方」に無自覚な人が増えていることによる、負の感情の蓄積がそれなりに関与しているのではないかと、私は個人的に思っています。