随想「作意と意図」

合気道の技は、相手を投げたり倒したり、関節を極めたりします。武道ですから当然です。ですが、常識的に考えて不思議なことに、相手を投げてやろう倒してやろう、関節を極めてやろうと思って技を行うと、とたんに技がかからなくなってしまいます。
これにはいくつか理由がありますが、とりあえず二つの観点から説明してみます。

  1. 受に危害を加えようとする取の気持ちを、受が察知して反発してしまう。
  2. 一般的な人間が身に着けた日常的な動作と、合氣道で求められる動作が物理的に異なっている。

が原因かと考えられます。1はわかりやすいですね。人間誰しも投げられたり倒されたり関節を極められたりはしたくはありませんから、無理やりそんなことをやられそうになると、やめてくれ!!と反発してしまいます。つまり、作意があると技はかからなくなります。

2はちょっと説明が必要ですが、実例を挙げて大雑把に説明してみます。
手でものを押すとき、一般的な方は肘の曲げ伸ばしで「グイっと」押すと思います。しかし、合氣道では肘だけでなく全身を遣って「ふわっと」押します。
肘だけで押さずに全身で押しますから、同じ距離を押そうとすると身体の各部位の変位(動く量)は小さくなります。
前者を日常的な動き、後者を武道的な動きとすると、技をするときに日常的な動きをしてしまうと、相手もその動きを察知しやすく抵抗しやすいということになります。逆に武道的な動きができていれば、日常的な反応では抵抗できないということです。

私の師範や先生は、こうしたことを老師の言葉をかりて「道は為す無くして而も為さざるは無し」と説明されます。相手をどうにかこうにかしてやろうという作意を持つと相手は抵抗してしまい、技がかからない。作意をなくし、武道的に正しく動くことで「為す無くして技が為される」ということかと思います。

これらをどう身に着けるのかというと、もちろん正しく稽古を積むしかないのですが、そこには作意のない武道的に正しい技を稽古しようという「意図」が必要になります。
やがて意図を持たなくとも作意のない技ができるようになることを夢見て、「作意を消すために意図を持って稽古に励む」ことが大切なのだろうと思います。

精進あるのみですね。