随想「プログラミング教育」

いつもは合氣道の話ばかりですが、今回は趣向を変えて教育について書いてみようかなと思います。まだ自分も若く(若いか・・・?)、子供も一歳半ほどなので、現時点で何を述べてもむなしい気もしますが、今自分はこう思ったという備忘録みたいなものです。

一時は小学生の英語教育が~という話が盛り上がっていましたが、最近は同じような流れで「プログラミング教育」が叫ばれているようですね。

詳しくは文部科学省の該当ページを見てもらうとして、簡単に抜粋で説明しますとプログラミング教育とは、以下のような教育を行います。

子供たちに、コンピュータに意図した処理を行うように指示することが
できるということを体験させながら、将来どのような職業に就くとしても、
時代を超えて普遍的に求められる力としての「プログラミング的思考」
などを育成するもの。コーディングを覚えることが目的ではない

そして、「プログラミング的思考」とは以下のようなものだそうです。

自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組合
せが必要であり、一つ一つの動きに対応した記号を、どのように組み合
わせたらいいのか、記号の組合せをどのように改善していけば、より意
図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力

プログラミング教育はプログラミング的思考を身に着けるためのもので、プログラミング的思考とは端的に「論理的思考である」とされているわけですが・・・。「理屈と膏薬はどこにでもつく」という昔からのありがたい言葉があります。論理的であることはそんなに自慢できることでもないと思ったりもします。論理ってのは出発点が異なれば、組み立て方が変われば、結論が如何様にも変化してしまうものですから。逆に、出発点も組み立て方も違うのに、結論だけ似たようなものになることもあります。

そういうことに思いを致さない人とは建設的な議論が難しいものです。「私の考えではこれはこうだ」という殻に閉じこもり、自分に都合の良い断片的な情報を集めてはひたすらその殻を固く分厚くしたり、だれに頼まれたわけでもなくトゲまで生やしたり。そういう人と議論をすると対立点が浮き彫りになるだけで、「どうやって対立を収めるか、和らげるか、譲歩妥協して着地点を探るか」という方向に話が進まないんです。ああ、思い出しただけで気が滅入る・・・。(何があった・・・)

これからの、国境をはじめ様々なボーダーラインがなくなっていく多様な時代を生きていくのに本当に必要なのは、「論理の異なる人となんとかして折り合いをつける力」だと思います・・・。論理的になることだけを目的にすると、対立が浮き彫りになるだけ。あっちにもこっちにも対立点が乱立して、『対立点のデパートや~!!』となるだけです。(古い!)

プログラミング教育をするのであれば、その、浮き彫りになった対立にどのように折り合いをつけていくか、という方面の教育も必須であると思うのですが、そんな話はプログラミング教育関連のニュースなどからはとんと聞きません。

かつての英語教育や科学教育もそうなんですが、昨今の行政が打ち上げる教育策は大抵、当初の目的とは逆の効果をてきめんに発揮していると常々思うのですが、気のせいでしょうか・・・?今回のプログラミング教育も同じ轍を踏まないことを祈ります。

そう考えると、合氣道はまさにプログラミング教育を補完できるものだなぁとも思います。