随想「剣を使わぬ剣術」

合氣道は複数の二つ名があります。複数なのに二つとはこれ如何に・・・。
中でも有名なのがヨーロッパを中心に呼ばれる「動く禅」と、開祖がおっしゃったという「剣を使わぬ剣術」でしょうか。前者の解説はまたの機会にして、今回は後者について考えてみたいと思います。

合氣道と剣術、どこが似ているでしょうか?
剣を正眼に構えた状態から剣を取り去った構えが合氣道の基本の構えでして、そのあたりは似ています。また、動き方も半身から半身への交互の入れ替えが基本で、そこも似ています。相手の攻撃線から自分の身体を逸らしつつ相手を自分の正面に見据えるよう捌き、相手の中心を取る、という点も正に剣術の攻防と似ています。

さてしかし、では本家本元、剣術はいったいどのような理合いで稽古をしているのでしょう?合氣道を剣を使わぬ剣術というのであれば、剣術をもっと見直してもいいのではと個人的には思っています。

新陰流系統のある流派では、正眼の構えが今の剣道の正眼の構えとは全く異なります。腰を落とし、両肘を完全に伸ばし、剣の切っ先は自分の頭より上、相手の目か頭の高さに屹立します。そうして立てた剣に、”自分の身体を隠してしまう”そうです。幅1センチにも満たない剣に身体を隠すとはどういうことでしょう??
その構えを正面からただ見れば、もちろん身体は剣から大きくはみ出しています。しかし、”しっかりと正眼に構えた”人の前に立つと、まったく打ち込むスキがありません(下腿部にスキを生じやすいですがそれはまた別)。漫然と形をまねて構えた人にはやはり、打ち込めるスキを観て取れます。どうやら、「剣で正中線を隠す」のだそうです。なるほどぉ~・・・さて、合氣道の私はそんな構えができているだろうか・・・?むしろそんなことを考えたことがあっただろうか・・・?と、ここ数年試行錯誤しています。

そしてそれは構えに限りません。攻防の動きの最中であっても一事が万事です。正中線を立て、伸縮させ、隠したり見せて誘ったりしつつ動くのだそうです。正中線を守れなければそれはもう切られるのです。ですから、体をひねって勢いをつけて、後から剣がついてくるなどはあり得ません。身体を捌いた時には剣はもう通っているのです。身体の捌き始めと終わりはそのまま運剣の始めと終わりなのだそうです。それは自分だけでなく相手もそうです。さらには相手の動こうとする思念を取って動くのだそうです。

そんなやり取りですから、理想は「相手の思念をとらえたときにはこちらがもう切り終わったとき」なのだそうです・・・。

そしてそんなこんな考えは、取りだけでなく受けも持たなければ成り立たないのだと思います。目も体も心も同じように求め高めなければ・・・。

精進します。