随想「万有愛護」

今回は合気道神樂塾の中島先生から、開祖のおっしゃった「万有愛護」について、私がどんな意見を持っているかのご質問があったので、随想にて書いてみたいと思います。

ご質問で特におっしゃっていたのは、「万有愛護と言いながら食事で他の生物の命を奪うとはこれ如何に?真の万有愛護とはなにか?」ということでした。(違っていたらごめんなさい)

私の持論・結論から先に言うと、万有愛護とは、単語自体に特定の意味・概念があるのではなく、「万有愛護とは何ぞや?」とその意味・概念を思惟する、また、しようとすることによって私たちの心身に起こるであろう種種の影響を期待した言葉ではないかと捉えています。

合氣道の精神に、「天地の心を以って我が心とし、万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂する」とあります。この場合、「天地の心=万有愛護の大精神」でしょうか?「天地の心かつ万有愛護の大精神」でしょうか?そこからしてすでに???です。

宇宙の真理・法則というのは果たして万有愛護でしょうか?動植物の世界は弱肉強食です。人間が動植物の範疇に収まらないわけがありませんから、当然人間も弱肉強食の摂理の中です。また自然災害は人間だけでなく他の生き物にも襲い掛かります。火災。水害。震災。果ては天体衝突。太陽はやがて地球を焼き尽くすほどに膨張し、やがて白色矮星へと変貌し、地球は暗闇に陥ります。太陽より質量の大きな恒星を中心とする他所の太陽系であれば、焼き尽くされるどころか超新星爆発に巻き込まれて消し飛んだり、その成れの果てのブラックホールに引きずり込まれたりすることもあります。さらに今この世を構成する元素はすべて過去に星が超新星爆発で宇宙中にばらまいたものです。それも元をたどればファーストライト、宇宙の晴れ上がり、ビックバン、インフレーション・・・とつながっています。すべて自然の法則にのっとっています。いったいこの法則のどこに万有愛護があるのでしょう?万有愛護よりも仏教の四宝印「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦」のほうが個人的にはしっくりきます。

ご質問に食べ物の命のお話がありました。
実は大乗仏教では肉食を禁じつつも生きようとするためには植物を食べなければやっていけないので、「植物にも命はあるが感情がないため食べても殺生には当たらない」という、苦し紛れの論理が採用されています。しかし、 初期仏教・小乗仏教では植物も不殺生戒の対象でした。これは仏教の歴史でも生命観や殺生に関する意識が変貌してきたことを意味します。 良くも悪くも形骸化してきていると言えます。
(仏陀ではなく) 仏教ですら食べ物の命と殺生については厳密なお話が困難なのかもしれません。

お釈迦さまもお肉は食べました。もちろん自分で殺生はしません。しかし、修行者への布施もまた功徳を積むことであるという考えから、布施として肉しか施せない人がいた場合(肉屋や狩人)、その布施を断ることはその人の修行を妨害することになりますから、お釈迦さまもお肉を食べたということです。とはいえ、今からあなたのために獲物を捕ってきますというのはNGだったそうです。たまたま肉があったからお布施します・・・はOKと。

あ、食べ物の命についてですが、個人的には仏教の三毒に気を付けていただいています。三毒とは仏教修行者が気を付けるべき事項で、「貪瞋痴」です。むさぼらず。瞋らず(恨まず・怒らず)。無知の知。です。貪らない範囲でお命頂戴しています。

さて、我々は誰かの言葉を読んだり聞いたりするとき、その方がどんな意図でその言葉を発したかを気にします。当然です。しかしそれと同程度に、その方がどんな時代を生きたか、どの国のどの地方の人か、どんな知識を持っていたのか、どんな人生を歩んできたか、どんな性格だったか・・・といったことも気にしなければいけません。だって、言葉というのはそれらすべてのフィルターを通して出てくるのですから。
特に時代の異なる人、国の異なる人の言葉は注意する必要があります。自分が持っているフィルターとは全く異なるフィルターを通して出てきた言葉を、自分のフィルターでもって理解しようとすると、大変な誤解をする可能性があります。

米俵は1俵60kgですが、これはかつて「普通の労働者ならだれでも持てるから決まった重さ」だそうです。人によっては2俵を両肩に担ぐとか、背負子を遣えば5俵かつぐ「女性」もいたそうです。植芝盛平翁は槍で米俵を積み替えたそうですし・・・。今の人は半俵の米袋さえロクに担げないでしょう。そんな時代のそんな人々が口にする「普通の人」と、現代の我々がイメージする「普通の人」って同じでしょうか?僕はとても同じとは思えません。

言葉に限らず文化もそうです。武道は伝統文化の一種でしょうが、伝統文化を理解しようとするときも、上述のように現代の自分の常識で伝統文化の言葉や動きの意味を理解しようとすると、十中八九真意を取り違えると思います。武術武道の型の形骸化の原因の一端ではないかと思います。

そういうことを鑑みますと、「開祖がおっしゃった『万有愛護』という言葉」に特定の意味を張り付けるのは、現時点の私の力量では無理だと私は思います。これが言いたいがために長々と宇宙の話やらフィルターの話やら米俵の話をしました。

お釈迦さまも言っています。「月を差す指に惑わされるな」と。正岡師範もよくそう言います。お釈迦さまも師範も、そしてきっと開祖も、「何か言葉では言い表せない何かを、何とかして我々に伝えよう、遺そうと、いろいろな言葉を発している」のだと思います。

だとすれば私にできるのは、「この言葉、あの言葉、そのお話はいったい私に何を伝えようとしたのだろう?」「今の私の生き方は先達の教えに背いてはいないだろうか?」「今の技には愛があっただろうか?痛くなかったかな?」などなど・・・言葉に意味を張り付けることではなく、言葉を振り返ることで言葉の奥にある、先達が伝えたかったものを思惟する、しようとすることで「自分を見直す」ことだけかなと・・・。滅私没我です。もちろんそれはこの言葉の意味はなにか?を探求する心があるからこそ意味を成すものと思います。意味は探求するが意味付けはしない。技は探求するが技名は付けない。そんな感じです。

以上、支離滅裂ですが、万有愛護について書きました。ついぞ万有愛護の意味は出てきませんでした(笑)。ご期待に沿えず申し訳ありません。

余談ですが、今回書いたようなことを普段から結構気にかけて稽古しています。ですので私の袴の刺繍は「諸法無我」なのです。