随想「型稽古の意味ーなぜ手首を取るのかー」

見学者や初心のかたに体験をしてもらう際、入り身転換の相対稽古で、見学者が受け、経験者が取りの場合に手が離れてしまうことがあります。

「入り身転換の途中で受が手を放してしまうと、取りの手がフリーになって、ここぞとばかりに攻撃されてしまいますよ。手首を取る以上、受けも油断はできませんでしょ?」と説明して手を放さない形で稽古してもらいます。(むろんある程度の経験者であれば、「離れないように入身転換する」ことも大切ですが)大体ご納得いただけるのですが、そのうちまた疑問を抱かれると思います。「なぜそもそも手首なんか取らなきゃいけないの?」「実戦ではありえない攻撃に対する技をなぜ稽古するの?」『型って何の意味があるの?』と。

合氣道であれば、母体となった大東流柔術が殿中の武術であったことなどから、「抜刀しようとする手を抑えられた際の反撃の技である」などとも説明できるのですが、そうであればさらに疑問が湧きます。「帯刀などあり得ない今の世に、それを稽古することに意味があるのか?」とか、「武芸の心得のある人間が今しも刀を抜こうと構えているところに、つかつかと歩み寄ってその手を抑えようなどと無謀なことを、往時の侍はやったのか??」などなど・・・。かく言う私自身、ここ数年はそんなことばかり考えていました。

「今の世に~」との問いに安易に答えようとすると、合氣道の意味が考古学的興味を満たすものに限定されてしまいます。「刀を抜こうと構えている~」との問いには、それっぽい理屈をつけてしまうことはできるのですが、それらの理屈は後付けですから、しっくりきません。答えありきで理由を後付けするとろくなことがないのはこの話題に限りません。

正直なところ、武術・武道の流派は数あれど、『型とは何ぞや?』に対する明確な答えはなかなか伝わっていないと思います。しかし、この問いは実は武術・武道の術的核心に迫る重要なものです。そしてその核心は、答えを安直に考えてしまうとたちどころに姿を隠してしまいます。その核心が伝わらずに形だけが残ってしまうことを形骸化と言い、一般的な人どころかその武術・武道を学ぶ者からですら、「型などただの形式的な役に立たないもの」と言う声を聞くこともあります。

さて、『型とは何ぞや?』を、私淑する古武術界で有名な振武舘黒田道場・黒田鉄山先生の言葉を借りて述べますと、

型は実戦の雛形ではない。型は武術的身体を得るための方便である。武術的身体とは武術の修練によって培われる非日常的な働きを有する武術的な術技的身体であると同時に、芸術的普遍的価値を有する理想的な美的身体であり、自然体とも言われるものである。

ということになります。このコラムで今まで述べてきた自然体正中線丹田などを体得するための『方法論・理論としての型』が術の核心なのです。

そう考えれば、手首を取られるなどという実戦ではありえないようなシチュエーションにも意味が見出せます。

手首を取られるというのは、実戦としてはもう負けた状態です。生殺与奪を相手に握られています。絶体絶命です。正面打ちや横面打ちなどの他の攻撃もそうです。一足一刀で攻撃が届く位置に相手がいるというのは絶体絶命です。合氣道に限らず、武道・武術が型のスタートとしている状態は、実は絶体絶命のシチュエーションなのです。ふつうに考えれば絶対に覆らない、そこからの勝ちはあり得ないシチュエーションです。武術・武道の術的核心たる「型」は、そんなシチュエーションが覆えるとすれば、一体それは何によって達成されるのか?我々はどういう身体・心を求めるべきなのか?を伝えようとしているのです。

合氣道の稽古では手首をしっかり握ってもらい、手首を外したり技をかけたりしますが、それは「実戦で手首を取られたときにそれを外したり技をかけるための稽古ではない」のだろうというのが昨今の私の見立てです。そこに気付かずに稽古をすると、核心を見誤った状態で稽古することになります。もちろん、ごく初期の段階であればそれも有効でしょうが、どこかで意識的に質の異なる稽古に変わらなくてはいけないと思います。だって、実戦で手首を取ってくる人などいませんから。いきなり遠間から拳や足や武器が飛んでくるのですから。

なまじっか武術・武道をかじった人が有事の際に痛い目を見たという話があるのはそういったところにも原因があるのかもしれません。私は門下生にそんな悲惨な事態に遭遇してほしくないので、かなり早いうちから以上のような話をしています。

精進あるのみですね。